中岡亜希さんの調査活動(国内)

自ら進行性の希少難病と闘いながら、ユニバーサルな社会を目指し、新たな選択肢の開拓と啓発を続ける中岡亜希さんの海外レポート

人の手とアイディア、そして、少しの勇気があれば、
誰もが自由に楽しむ環境はつくれる

ASSYstar’s Projectの対外的なPRやイベント、各種メディアでのスポークスマンとしても活躍している中岡亜希さん。彼女は、原因不明の希少難病と告知されて、日本航空を退職後、週に2日ほど、実家のある京都のフリースクールで子どもたちの宿題を見ていました。子どもたちとふれあっていると、つかの間ではあっても、病気のことを忘れることができたからでしたが、そこでの小さな出来事が、現在の活動を始めるきっかけとなったのです。

子どもたちの無邪気なひと言から、初の山登りへ

いつもと同じく賑やかなある日のひととき、山登りの計画をしている子どもたちが声をかけました。
「亜希ちゃんも一緒に行かない?」「山登り楽しいよ」「ねぇ、一緒に行こう!」
「でもねぇ...」彼女の答えは歯切れの悪いものでした。
「みんなに迷惑をかけるし、やめとこうかなぁ….」

病状がまだそれほど進行していなかった頃は、福祉自動車の運転もできたので、ほとんど一人で行動していました。当時、遠慮がちだった彼女はそのほうが気楽だったといいます。ところが、相手は子どもです。あれこれ思いを巡らせるはずもなく、断られても引き下がったりはしません。

「亜希ちゃんと行きたいなぁ」「亜希ちゃんは行きたくないの?」
「そりゃ、できれば行きたいけど…」
「じゃー、行こう!行こう!」「約束ね!」

いつの間にか押し切られるように、話は進んでいってしまいました。
彼女自身、本当は行きたかったのです。
ただ、その気持ちを押さえつけていたのです。「やりたいかどうか?ではなく、できるかどうかが基準になっていました」と当時を振り返る彼女。

ところが、”行けるかどうか”ではなく、子どもたちの純粋な思いが”行きたい”という気持ちを沸き立たせてくれました。
フリースクールを主催していた代表やスタッフにも子どもたちと一緒に山に行きたいと伝えたところ、「行こうよ!」と即答。

頂上に着いた喜びを弾みに、次は富士山を目指す

行き先は、長野県のとあるトレッキングコース。
標高は1700mくらいですが、車椅子を利用している彼女が登るには、決して容易とはいえません。
もちろんバリアフリーのトイレなんてありません。
途中まで軽トラックを使いつつ、みんなに支えられて、山頂で一泊のキャンプ。久しぶりの遠出、しかもみんなと同じ景色を見ながら初の山登りができたことに感動したといいます。

夜は満点の星空を眺めながら、修学旅行のようにワイワイと騒いで過ごしました。
そして翌朝、一緒にご来光を拝みにテントを出ると、下界には雲海が広がり、朝日が昇ってくる瞬間。

子どもたちも「亜希ちゃんと来られてよかった」と大はしゃぎ。そのテンションにつられて「次はどこへ行こうか」と彼女がたずねると、みんなから「富士山!」という答え。

「一緒に楽しみに来た」という言葉に押されて

天候も風雨交じりでよいコンディションではなかったのですが、水陸両用車椅子「HIPPO」に乗り、ロープで引いてもらいながら山頂へ。
たどり着いた時には、みんなから「亜希ちゃん、ありがとう」といわれたことに驚いたそうです。
「こちらこそ、ありがとうという気持ちでいっぱいなのに...」と不思議がりながら、一緒にチャレンジするとはこういうことなんだと実感したともいいます。

そして、だれもが口をそろえて「亜希ちゃんを登らせるために来たんじゃなく、一緒に楽しみたかった」といったことに嬉しさはもちろん、あきらめなくてもいいということに気づかされたのです。

▲2009年車いすで富士登山にチャレンジしたときの写真。
左からソチオリンピックで”解説に違いを生み出す男”と、今話題の三浦 豪太さん、三浦雄一郎さん、中岡亜希

以来、彼女の考え方は一転しました。介助が必要な人たちでも、周囲の人たちとも一緒に楽しめる機会があれば、どんどん外に出ていける。そんな社会を作っていきたい。
自らが先頭になって、活動をしていこうと決意したのです。

そのため、介助・バリアフリー先進国の事例を、この目で確かめたいと考えました。
まさに、あの時の子どもたちがくれた「一緒に山に行こう」という言葉が彼女の大きな一歩となったのです。